
田中正造について
田中正造は明治24年9月の大洪水のとき、衆議院議員であった。足尾鉱毒事件に本格的に取り組んだのは、この時からである。
正造は下野の国(現栃木県)安蘇郡小中村(現佐野市小中)生まれ。先祖は百姓であったが父善造が名主となって村政を司り、父富蔵の代には苗字帯刀を許される上級の名主、割元になった。正造は17歳のとき名主を継いだ(安政4年)。当時小中村の領主は六角家であった。その筆頭用人が私服を肥やすために名主公選制を任命制に変える動きをしたとき、正造は反対運動を起こし、領内の中農以上700余名の署名を集め、改革を求める連判状を提出した。正造は六角家の牢に10ヶ月と20日間入れられたのち、喧嘩両成敗の判決があり、六角家領地内から永久に追放され、領主は隠居した。
正造は知人の勧めで、江刺県(後に盛岡県と併せて岩手県になる)の県吏に採用されたが、そこで上司の殺人事件に容疑を掛けられ逮捕され、3年と20日間免罪で牢獄生活を送った。明治7年4月無罪放免され故郷に帰る。そこで区会議員、栃木県会議員を経て明治19年から23年7月まで県議会議長を勤めた。明治22年2月11日明治憲法発布に基づき、衆議院議員の総選挙が7月に行われ、正造は立候補し当選した(以後連続当選をする)。この年、正造は明治期最大の社会問題、足尾鉱毒事件に遭遇し、それまでの半生にも劣らぬ波瀾に満ちた政治生活を送ることになる。正造50歳のときである。
明治24年12月18日、第1回目の「足尾銅山鉱毒ノ儀に付き質問書」提出。
明治25年5月24日、第2回目の 「足尾銅山鉱毒ノ儀に付き質問書」提出。
明治29年10月5日、渡良瀬村雲龍寺に「群馬栃木両県鉱毒事務所」設立。同志たちに「精神的契約書」=【雲龍寺の連判状】を結ぶ。
徹頭徹尾、鉱毒問題の根本的解決を期して運動にあたること
問題の根本的解決を期するため終始一貫して運動を共にし、いかなる困難に遭遇しても決して挫折・変節しないこと
もし途中で請願運動を止め、鉱業主と示談するような行動をとれば徳義的な制裁を加えること
上記のような条項を守って所期の目的を貫徹することを、ここに一死を以って精神契約をする。
その後、上京請願運動が始まる
明治34年10月23日、議員辞任
明治34年12月10日、11時15分、桜田門付近にて明治天皇に直訴(失敗)
これまで、足尾鉱毒事件に無関心であった人々も、直訴事件を機に関心と理解を示すようになる。多くの人々が「田中正造」に義人としてのイメージを持つようになったのはこの直訴がきっかけである。当時14歳の『荒畑寒村』は正造に同情と敬意を寄せていた。4年後の明治38年には正造を訪れ、大きな感動に打たれその後、【谷中村滅亡史】を書いた。岩手県の中学生「石川啄木」は新聞配達で得たお金の一部を足尾鉱毒被害民に送った。
谷中村遊水池建設計画が起こった明治37年7月、正造は谷中村に入り、遊水池建設反対の運動を続けたが、足尾鉱毒問題の解決の見とおしは無かった。ただ、谷中村に入って闘うことこそ自分の生きる道だという責任感・義務感からであった。
政治家「田中正造」は被害農民たちと共に闘っていたが、彼らの真の同志ではなかった。 議員を辞任して、農民と共に生き活動したときから初めて、被害農民の真の同志になった。
同志たちに見舞われながら、大正3年9月4日午後零時50分、死去する。72歳であった。