足尾鉱毒事件の概要
足尾銅山は戦国時代(1550年)に発見され、1613年徳川幕府銅山奉行の直轄となり、採掘から精銅までの全生産工程を持つ銅山として開発に力が注がれた。渡良瀬川の鉱毒問題は江戸時代から起こっていた。銅山が最盛期だった1680年ごろ、銅山から出る鉱毒のために渡良瀬川を上るサケが減少、流域の漁民がサケの漁業権の補償を求めた。また、1740年、サケがほとんど取れなくなったことから免税を願い出た。さらに1821年には足尾銅山周辺の山林を過度に伐採したために洪水が発生、銅山の鉱毒水が下流の農作物に被害を与えた。しかし明治10年から20年代に掛けての深刻な鉱毒被害とは比較にならなかった。
明治維新によって足尾銅山を支配下に置いた明治政府は、その管轄を日光県に移し、明治3年には栃木県に委ねた。翌4年、政府は銅山の経営を民間に移すことを許し、横浜の野田彦蔵、九州の士族副田欣一が経営にあたったが、採算が取れなかった。この頃、古河市兵衛は第一国立銀行頭取渋沢栄一の融資を受けて新潟県の草倉銅山の経営に乗り出していた。市兵衛は明治10年2月、相馬家の志賀直道、渋沢栄一と共同経営の形で足尾銅山の鉱業権を譲り受けた。操業開始後9年で黒字経営になり、共同経営に参加した志賀直道、渋沢栄一が協議離脱して市兵衛は経営権を独占した。操業中に有望な鉱脈を発見し、銅生産量が飛躍的に伸び、明治18年には操業開始の明治10年と比べると実に、90倍に跳ね上がった。しかし、足尾銅山の発展はその裏で明治期最大の社会問題といわれる深刻な鉱毒問題を引き起こした。
鉱毒問題は一つには、足尾銅山の精錬所の排煙による山林樹木の枯死と住民の健康被害で、二つ目は、渡良瀬川沿いの鉱毒による農業被害である。精錬所の排煙には多量の亜硫酸ガスが含まれていた。松木村は亜硫酸ガス被害がもっともひどかった。明治21年には桑の木がすべて枯死し、22年には養蚕を廃業せざるを得なくなった。28年松木村の農民は足尾銅山に損害賠償の支払いを要求。結果、要求額の半分以下の一戸あたり20円を受け取ったが、その際に、将来一切の損害に補償を要求しないと言う内容の「永久示談契約」を結ばされた。農業被害は年を追ってひどくなり、他へ移住する農民が増加し、50戸あった農家が明治36年には1戸だけとなった。
渡良瀬川では明治10年ごろまでは、年間鮎が90万匹、うなぎ、鯉、ウグイ、サケなどが豊富に取れ、漁業による生活者は2000軒であった。明治11年の渡良瀬川の洪水で多量の魚、うなぎが浮き上がり次いで、12,13年にも洪水が続き、数万匹の魚が死んで浮き上がった。(栃木県知事は魚の販売を禁止した)
明治20年頃から、魚の死は上流の足尾銅山が原因ではないかと噂が立ち始める。明治21年大洪水が起こり、渡良瀬川沿いの田畑が鉱毒水を被り、22年の農作物は深刻な不作に見舞われた。
このような無残な状態の中で、鉱毒を防ごうとする動きが出てきた。明治23年1月、栃木県の足利、安蘇、梁田の三郡の住民たちは、自分たちで原因を究明し、その結果足尾銅山が銅を精錬する際に出る銅鉱石の廃石や、鉱屑、鉱滓などを渡良瀬川に流すのが原因で有ることをつきとめた。 住民の中には「古河市兵衛に鉱業の中止を求め談判すべきだ」という強硬な意見も出たが、大多数は「足尾銅山が原因である証拠を揃えることが先決」と言う意見であった。結局、足尾銅山から排出される硫酸銅が渡良瀬川の水をどの程度有毒にしているかの検査試験を鉱学会に依頼した。
明治23年、第1回衆議院議員総選挙で、当時栃木県県会議長であった「田中正造」が初当選し、足尾鉱毒事件解決に乗り出すのである。明治34年12月10日、正造の直訴によって、日本全国民に足尾鉱毒問題が知れ渡り、「義人:田中正造」が生まれたのである。その後鉱毒被害民に同情する世論が沸騰し、鉱毒地救済婦人会・青年同志鉱毒調査会などの演説をはじめ、学生を対象にした鉱毒視察修学旅行、その他鉱毒被害救済募金を呼びかける、学生路傍演説会など年末年始の休暇を利用して次々と開催された。
政府は鉱毒被害を食い止めるための対策として、「遊水池」に着目した。頻繁に洪水を繰り返し、もはや回復の見こみの無い鉱毒汚染地一帯を政府が買い占め、「遊水池」を設置すればこれまでのような鉱毒問題は解決できると判断した。「遊水池」の候補地として埼玉県利島、川辺両村と栃木県谷中村であった。利島・川辺両村民有志は明治35年1月計画を知り、反対運動を起こしその年10月に計画を断念させた。谷中村では栃木県が36年1月、臨時議会で谷中村買収予算案を提出したが否決された。桂内閣は明治35年第二次鉱毒調査委員会の設置を閣議決定させ、36年その委員会は治水事業案を提出している。それは渡良瀬川の氾濫を防ぐために渡良瀬川が利根川と合流する地点に近い埼玉県側の利島・川辺、栃木県側の谷中村の三村のまたがる広さ3300町歩の大遊水池を建設する計画であった。明治37年12月9日、栃木県は再び谷中村買収予算案(37年度土木治水費追加予算として)を県議会に提出した。「人民を滅亡させるのか」と反対意見が述べられたが10日深夜、採決を強行し、賛成18・反対12で可決させた。38年3月、古河鉱業株式会社設立、副社長は内務大臣原敬で、足尾銅山問題の解決のためには、政府と古河との関係が密接になり、谷中村遊水池計画を強力に推し進めていく必要があった。栃木県は38年3月谷中村村民に北海道サロベツの国有地に移転するよう働きかけ、反対者の切り崩しを図った。明治39年4月栃木県知事白仁武は谷中村の廃村と隣の藤岡町への合併を村議会で決議させようとしたが、村議会は否決した。しかし、知事は否決を無視し、7月1日、「谷中村を廃村にして藤岡町に合併する」と発表した。明治40年1月26日、まだ谷中村に残留する村民約70戸400人に対し、政府は土地収用法を認定する公告を出した。
【北海道入植者の帰県活動}
入植25年目の昭和12年4月15日、28名の連盟で栃木県知事に帰県請願書を提出したが、無視される。昭和19年2回目の帰県請願書を提出。昭和46年、入植60周年記念日にあたる4月21日、13戸の農家が集まり栃木県知事と県会議長宛に請願書を提出した。その内容は「日本の公害の原点であります栃木県渡良瀬川で引き起こしました『足尾鉱毒事件』を肌で体験しました私どもは先祖伝来の田畑をこの被災に奪われ、或いは『企業によって生ずる功利は被害者個人の損害に優先する』との建前を堅持した当時の県や政府によりまして土地収用法適用、強制買収の過酷な憂き目に遭い、ついに私どもの父祖の意に反しまして明治44年4月21日に第1回集団移民として66戸が、大正2年2回目30戸が、現在の佐呂間町に入植せしめられました。(中略)ここに、第3回目の『渡良瀬川流域土地貸下請願』に及ぶものであります。なにとぞ私どもの逼迫しました窮状、調査くださるよう、特段のご配慮賜りますようここに13名の連盟を持ちまして、伏して請願申し上げます」
横川県知事は早速検討し、入植者の受け入れを決めた。昭和47年3月9日、65歳の今泉米次郎ら7世帯20人が第1団として宇都宮駅を降りた。61年ぶりに踏んだ郷土である。18歳のときに旧谷中村を出た佐藤ハルは81歳で最年長。一行は栃木県庁に横川県知事を訪ね、帰郷の挨拶。横川県知事からねぎらいと励ましの言葉を受けて、新居となる栃木県下都賀郡壬生町の雇用促進住宅に落ち着いた。